くまもとウォーターライフ
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  熊本水物語の伝承


水の伝承

託麻三山(たくまさんざん)

 熊本市北東の託麻ヶ原にある神園山、小山山、戸島山の三つの山を総称して「託麻三山」と呼んでいる。 その昔、阿蘇開発の神・健磐龍命が農耕地開拓のため、阿蘇カルデラに溜まった大池の水を西の山を蹴破って放出した。その時、蹴破った山灰が白川を流れ、ここに溜まって三つの山になったという。
 これにまつわる話はほかにもある。蹴破った時に、しりもちをついて立てなかった場所は立野(大津町)、そのとき流された池の主だった大鯰がたどり着いたところは鯰(嘉島町)、その骨を俵に入れたところ六荷になったところから、六嘉(同町)という。
託麻三山

九千坊(きゅうせんぼう)と清正公

 昔、中国にすむカッパたちが、一番大きくて力が強い九千坊をリーダーに、球磨川にやってきた。その数は九千匹。球磨川はとても水がきれいで住みよく、カッパたちは大はしゃぎ。畑を荒らしたり、馬を川に引き込んだりした。
 困り果てた村人は、殿様の加藤清正公にカッパ退治を訴え出た。清正公は、カッパが苦手とする猿を集め、「カッパをこらしめろ」と命令して退治させた。カッパはほうほうの体で筑後川に逃げ出したという。
 その後、カッパは水難よけの神さまの使いになったと伝えられている。
かっぱ

味生池(あじ うの いけ)と竜伝説

 池上小学校の北側一帯は「味生池跡」とされる。肥後の国司・道君首名が構築した農業用ため池で、肥後国最初の大規模な利水事業として知られる。池は埋められ今はないが、池上(いけのうえ)の地名が残る。
 昔、この池には悪竜がすみ、村人を困らせていた。そこで池辺寺の住職が祈祷をしたところ、竜が出てきて「私は村に住んでいた女です。いじめられ、その仕返しに竜となり悪事をしたが、住職の祈りで目が覚めました。この罪滅ぼしに、日照りが続いたら、独鈷と鈴杵で雨乞いをすると降らせます」と言って消えた。
その後、大干ばつが続き、朝廷から雨乞いの勅令があり祈祷したところ、30日間雨が降り続いたので、寺は領地を与えられた。それ以来、池辺寺を竜池院という。池辺寺跡は国指定史跡である。
味生池(あじ うの いけ)と竜伝説

鐘ヶ淵(かねがふち)

 昔、横手一丁目に長さ約30m、幅10mほどの深さ5、6mの淵があり、青々と水をたたえていた。
 夫の浮気を苦に、その淵に身投げをした女がいた。その女は竜となり、夫への怨みを晴らそうとする。それを知った女の父親は、「お前が怨むのはわかるが、そういう姿ではお前がかわいそうだ。やめてくれ」と諭した。
 すると竜は「これからは村人へ恩返しをするので、干ばつの時は鐘をここに沈めてください」と言い、淵の底に消えた。
 その後、干ばつの時にはこの淵に鐘を沈め、雨乞いするようになった。今はこの淵はない。
鐘ヶ淵(かねがふち)

赤穂浪士(あこうろうし)の手水鉢(ちょうずばち)

 花園小学校内に、昔、赤穂浪士が使っていたという手水鉢がある。四十七士が吉良邸に討ち入った後、大石内蔵助ら17人が細川藩江戸屋敷にお預けになり、翌年に切腹するまで使っていた手水鉢である。この手水鉢を藩士がもらい受け、江戸から回船で百貫港に陸揚げして、人夫8人で運んできたという。
赤穂浪士(あこうろうし)の手水鉢(ちょうずばち)

桜井硯の池(さくらいすずりのいけ)

 神園山西麓の神園1丁目にある大師堂の裏手に小さな湧水池がある。池を囲む自然石が硯の形をしているので「硯ノ水」と呼ばれている。
 昔、弘法大師が諸国行脚の途中、近くの農家で宿を借りたとき、老婆が遠くまで苦労しながら水を汲みに行き、厚くもてなしてくれたお礼に、家の近くに杖を立てた。すると地面の岩が割れ、水が湧き出したという。

拝石(おがみいし)の硯(すずり)ヶ水

 河内町東門寺地区、金峰山の峠の茶屋から芳野方面に登る七合目付近に、九個の巨岩群「拝石」がある。昔、弘法大師が山を越える時、水が欲しくなったが近くにはなかった。そこで、杖で地面を一突きすると、水が湧き出た。そこは湧水池となり、硯の形をしているので「硯ヶ水」と呼ばれている。
拝石(おがみいし)の硯(すずり)ヶ水

鼓ヶ滝(つづみがたき)

 河内町の鼓ヶ滝は、金峰山北西の中腹、河内川の途中にある。この一帯は肥後耶馬溪と呼ばれる景勝地で、戦前は県指定の名勝に選ばれた。滝から流れ落ちた水がこだまして、ポンポンと鼓のような音がしたのでその名がついたとされる。しかし、近くの山寺の小僧が大石を投げ滝の岩が崩れ、それ以来滝の音は消えたという。平安時代、肥後国司清原元輔(三十六歌仙)は鼓ヶ滝を歌に詠んでいる。
鼓ヶ滝(つづみがたき)

鎧ヶ淵(よろいがふち)

 井芹川は大正のころまで、上熊本駅の裏を流れていた。そこに長さ50m、幅20mの淵があった。
 天正9年(1581)、隈本城主・城親賢が城外で死去した際、家臣が早駆けでお城に知らせる途中、誤って淵に落ち、鎧を着けていたので馬とともに死んだ。
 それ以来、命日になると淵の底から馬の蹄の音が聞こえるので「鎧ヶ淵」と呼んだという。
鎧ヶ淵(よろいがふち)

寒巌義尹(かんがんぎいん)の干拓

 銭塘町は、鎌倉時代に順徳天皇(別説後鳥羽天皇)第三皇子寒巌義尹が、有明海を干拓して開いた土地と伝えられる。義尹は川尻の大慈禅寺を開いた禅僧である。
 干拓の時、義尹が、土を運ぶごとに人夫に銭を払ったので、「銭塘」という地名になったと伝えられる。一方、義尹が修行した唐の銭塘江の長い塘に似ているので「銭塘」と名付けたという説もある。
寒巌義尹(かんがんぎいん)の干拓
最終更新日 [2014年8月20日]  
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